【話の肖像画】元プロ野球阪急選手ロベルト・バルボン(1) 力道山にものすごう怒られた

 

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ロベルト・バルボン氏(沢野貴信撮影)

 

 〈ソフトバンクデスパイネ、中日から巨人へ移籍したゲレーロら現在、日本のプロ野球で活躍するキューバ人選手は多い。先駆けとして東京・羽田空港へ降り立ったのは昭和30年3月18日。言葉や食べ物、気候と何もかも異なる極東の地で、波乱とドラマに満ちあふれた野球人生が幕を開けた〉

 あの時代、まだジェット機はなかったから、首都ハバナからアメリカのマイアミ、シカゴ、カリフォルニア、ハワイを経由して3日間かかったわ。まあ(日本は)寒かった。それから阪急(現オリックス)のチームに合流したが、寒さでほんま練習できへん。グラウンドではずっと火鉢の横ばっかりや。

 食べ物も日本で口に合うもんは少なく、ケチャップ味のチキンライスばかり食べていた。すき焼きはOKやったな。箸はずいぶん使えるようになったけど、刺し身やすしといった生魚は今でもダメ。

 通訳はなかった(笑)。言葉は通じなくても野球のやり方はだいたい分かるわな。日本語は試合のない日、本拠地の西宮球場兵庫県西宮市)に近い阪急の西宮北口駅で朝から晩まで改札に立ち、駅員の友達作ってしゃべって覚えたわ。市内の市場にも行き、「これは何?」と品物の名を聞きながら買い物をして、店員さんに言葉を教えてもらった。

 実は(母国語の)スペイン語と日本語は発音が似た言葉がいっぱいあるわ。例えば日本語のバカはスペイン語の牛、アホはニンニクとかな。そうやって単語から覚えたけど、日本語をまあまあ使えるようになるまでは2、3年かかった。

 阪急での愛称「チコ」はスペイン語で坊や、男の子という意味。チームのみんながバルボンといいにくそうだったので、僕から頼んだ呼び名や。

 〈人気プロレスラー、力道山の試合を「八百長」と言ってしまい、本人に怒鳴り込まれたことも。チームメートのいたずらで『八百長=好試合』とウソを吹き込まれたのが原因だとか〉

 力道山さんは野球好きで、球場や宿舎によう来てた。ものすごう怒られたわ。そりゃ怖かった。今でも忘れられへん(苦笑)。僕、(八百長の)本当の意味分かってたら、そんなこと言わへんわ。

 1年目の打率は2割8分。安打数(163)はリーグトップやったけど、日本に多かった下から投げるアンダースローの投手はほんま苦手やった。近鉄の武智(文雄)や西鉄の若生(忠男)。後から南海の杉浦(忠)も出てきた。

 足も速かったから三塁打はよう打ったわな(30年はリーグ最多の13)。僕はバッティングでは引っ張らない。右方向しか打てへんかったから、とにかくライトへ打って、「抜けた!」と思ったらサードまで行ってた。日本に来た外国人選手で300盗塁(通算308)は僕だけ。今は外国人は大きいの(長打)を打たんとすぐクビになるし、走れる選手は入ってこないんとちゃうか。(聞き手 三浦馨)

 【プロフィル】ロベルト・バルボン 昭和8(1933)年、キューバ生まれ。米マイナーリーグなどを経て30年、日本の阪急へ入団。主に二塁手として活躍し、“チコ”の愛称で親しまれる。33年から3年連続で盗塁王キューバ革命キューバ危機で母国が緊迫し、日本での生活を決意する。40年に近鉄へ移籍し、同年引退。レストランを経営後、49年にコーチとして阪急へ復帰し、51年から球団通訳に。ユニークな関西弁が話題となる。現在はオリックス野球教室名誉顧問として子供の指導に当たる。